設立

創設者

本社所在地

親会社、グループ

公式サイト

1949年3月31日

カルロ・アバルト

イタリア ピエモンテ州 トリノ

ステランティス N.V. 、ステランティスグループ

https://www.abarth.com/ (英語)

https://www.abarth.jp/ (日本語)

Untitled

歴史

イタリア系オーストリア人のカルロ・アバルトは、1947年からチシタリア・レーシングチームのテクニカルディレクターを務めていた。翌年、チシタリアは解散し、アルマンド・スカリアリーニの出資を受けたカルロ・アバルトがチシタリアの資産を引き継ぎ、1949年にカルロ・アバルトによって設立されたイタリアのレーシングカーおよび市販車メーカーであり、チューニングメーカーでもある。

ロゴは黄色と赤を基調とし、盾の中にサソリが描かれている。このサソリは創設者カルロ・アバルトの星座からきている。

Untitled

~黄金期だった1950年代~1960年代に至るまで~

チシタリアから、レースカーと様々なスペアを手に入れた。レースに出るためにチシタリア204は直ちにアバルト・チシタリア204Aと改名された。スカドラ・アバルトレーシングチームには、グイド・スカリアリーニに加え、タツィオ・ヌヴォラーリ、フランコ・コルテーゼ、ピエロ・タルッフィなど著名なイタリアンドライバーが名を連ねた。タツィオ・ヌヴォラーリは、1950年4月10日のパレルモ-モンテ・ペッレグリーノ・ヒルクライムでクラス優勝を果たし、アバルト204Aでレースに出場したのが最後となった。

フィアットとの提携

1951年4月9日、本社はイタリア北部、ピエモンテ州のトリノに移転した。1952年、アバルトは、フィアットの工場でアバルト1500ビポストを製造し、ここから、現在に至るまでのフィアットとの関係が築かれていった。

1957年、アバルトはフィアットと契約を結び、レースで入賞すると報酬が支払われるようになった。それに応じてアバルトは、主に850ccから2000ccのクラスで、世界中の数え切れないほどのヒルクライムレースやスポーツカーレースに参戦し、上位クラスではポルシェやフェラーリ競い合った。勝利の数に応じて報酬を得ていたため、アバルトは考え得るあらゆるクラス、そして全世界のレースに参戦した。

伝説のインジェニェーレ(天才エンジニア)の加入

1958年の黄金期後半、アバルトはアルファロメオと共同でアバルト・アルファロメオ1000スポーツ・プロトティーポを開発。彼らはその過程を指揮するため、マリオ・コルッチを派遣した。アバルトは彼の技術に感銘を受け、マリオ・コルッチ技師は1960年にアバルトのテクニカル・ディレクターの地位を与えられた。

~市販事業~

アバルトは高性能エキゾーストを製造し、主にフィアットのロードカーのチューニングキットを中心に事業展開。レーシングエグゾーストは、1950年代のスクーター、ランブレッタモデルDとLD用に製造された。ランブレッタはアバルトが開発したエグゾーストのおかげもあり、1950年代に125ccモーターサイクルのランドスピードレコードをいくつも保持していた。

アルファロメオの他にも、ポルシェやシムカなどにもレーシングカーの製作などの協力していた。

~転換期~

カルロ・アバルトは1971年7月31日にアバルトをフィアットに売却した。フィアットはレパルト・コルセのレース活動(ラリーなど)に興味がなかったため、これらはエンツォ・オゼッラが引き継いだ。

1977年12月、1978年のレースシーズンを前に、競合関係にあったアバルトとスカドラ・コルセ・ランチアのファクトリー・レーシング事業は、フィアットによってEASA(Ente per l'Attività Sportiva Automobilistica、カースポーツレース活動組織)という名称の一つの組織に統合された。ランチア・ラリー037グループBラリーカーを開発し、1983年の世界マニュファクチャラーズ選手権で優勝した。 他にも、ラリーカーだけでなく、ツーリングカーやフォーミュラカーなど様々なレースシーンでイタリアンマシンの技術支援などをし、イタリアのレース業界を支えた。

~消滅~