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1963年5月7日

フェルッチオ・ランボルギーニ

イタリア エミリア・ロマーニャ州 サンターガタ・ボロニェーゼ

モデナ通り 12

金、黒

ウェッジシェイプ(楔形)、イプシロン(Y字)

ドゥカティ、イタルデザイン・ジウジアーロ

アウディ、フォルクスワーゲングループ

https://www.lamborghini.com/en-en (英語)

https://www.lamborghini.com/jp-en (日本語)

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歴史

フェルッチオ・ランボルギーニは、トラクターの製造やボイラーとエアコンの製造で富を得て、スーパーカーを集めるようになった。そんな中、スーパーカーの居住性と性能、信頼性に不満を感じる。後に、フェラーリオーナーとなるがそのフェラーリに対しても不満を感じることになる。フェラーリのクラッチ故障がフェルッチオ・ランボルギーニを悩ませた。そんな時、自社のトラクター工場でフェラーリを修理しようと考えたフェルッチオ・ランボルギーニは、フェラーリのクラッチを分解した。分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のクラッチディスクで、しかも全く同じパーツにフェラーリは10倍ほどの値段を付けていた。その後、更に自分のフェラーリの不満を解消するために改造を始める。フェルッチオが改造したフェラーリはノーマルのフェラーリよりも壊れずらく、ノーマルのフェラーリよりも速かった。そこで、フェラーリよりも壊れずらく、快適なスーパースポーツカーを作るために自動車ビジネスに足を踏み入れることを決める。

エンブレムの牛は闘牛。由来が諸説あり確実性がないため記載しない。

~最初の車~

1962年にランボルギーニ最初のコンセプトカーである350GTVの開発を開始。

1963年にはフェルッチオ・ランボルギーニがAutomobili Lamborghini S.p.A.(アウトモービリ・ランボルギーニ)を設立。

1963年のトリノ・オートショーでランボルギーニ最初のコンセプトカー「350GTV」を発表し、ついに自動車の世界に足を踏み入れる。

350GTVは性能や上質なインテリア等では注目を集めるが、居住性やフェルッチオが意識していたグランドツアラーとしての使い勝手の評判は最悪だった。 創設者フェルッチオ・ランボルギーニは車の悪いところを根本的に解決するために、カロッツェリア・トゥーリングにボディの修正をしてもらう。新しいボディを纏い、最初の市販車として350GTを生産開始。ここから、スーパースポーツカーメーカーとしてのランボルギーニの歴史が幕を上げる。

しかし….

ランボルギーニは最初の10年間で急成長を遂げたが、1973年の世界的な金融不況と石油ショックの影響を受け、販売が急減した。1973年以降、経営権は幾度となく変わった。

フェルッチオ・ランボルギーニの手から離れたのは1974年、もともと自動車部門の株を51%所有していたスイス人投資家ロゼッティの友人であるレイネ・レイマーに残り49%の株式を売却した時である。

1978年にはBMWから生産委託されていたM1の生産の遅れから契約を破棄され倒産。イタリア政府管理下に置かれる。

1980年フランス人実業家パトリック・ミムラン兄弟が250万ドルで購入し、ジャン=クロードとパトリック・ミムラン兄弟が破産管財人になった。ミムラン兄弟は、1984年までに破産管財人から会社を買い取り、事業拡大に多額の投資を行った。ミムラン兄弟の経営下で、ランボルギーニのモデルラインはカウンタックからジャルパ、高性能オフロードカーLM002へと拡大された。

1987年にミムラン兄弟はアメリカのクライスラーに売却し、クライスラー傘下になった。 クライスラーは1994年にマレーシアの投資グループ、セトコグループとインドネシアのグループ、V'パワー・コーポレーションに売却し、同グループのメガテックが所有した。

1998年、メガテックはランボルギーニをアウディに売却し、フォルクスワーゲングループであるアウディの管理下に置かれた。

アウディ傘下後には、ムルシエラゴやV10エンジンを搭載したベイビーランボルギーニであるガヤルドにモデルラインが変更された。